私は雨の日が苦手だ。「苦手だった」という方が正しいのかな。
夏生まれ、太陽星座獅子座な私は、太陽ギラギラの下で汗ダラダラになって過ごすのが好きだ。
タイやベトナムを旅していたときは、冬でも「あつ〜い!」と言いながら過ごせるのが幸せだった。
そういえば雨でも、タイでよく降られたスコールは平気だったけど、日本の一日中降っている雨はなんだか憂鬱な気分になってしまう。
それでも日本には梅雨があり、雨が降り続ける季節がある(まさにいま)。
毎年憂鬱になるこの季節だけど、今年は初めて梅雨の中よく出かけた場所がある。
なんとなく想像つくと思うけど、そう「森」へ。
森林浴ファシリテーターの実践ワークのための下見や森林ボランティア育成講座の中で、雨の日を選んだわけではないけど、必然的に雨の森に入ることが多くなった。きっと、今年に限らず来年も再来年も雨の森によく出かけると思う。今まで雨の日に山の中を車で通ることはあっても、森の中を歩くのは初めてで、その森の中の美しさに「みんな雨の日は森へ来るといいのに」と思わずにはいられなかった。
そういえば何年か前、大好きな人に「雨は夜寝てる間に降ってくれればいいのに」と言ったら「そう思うのもわかるけど、夜に仕事してる人もいるんだよ。その人たちが困っちゃうよ」と言われ、なんと優しい人なんだとさらに好きになった記憶がある。
まぁ、そんな記憶はいいとして、森の中にいるだけで私の「雨が嫌い」という憂鬱でネガティブな感情は、その美しさに癒され、ワクワクするエネルギーへと変わる。
雨の森の中で深呼吸をして、耳を澄まし、木々たちを眺めていると「雨の日っていいなぁ」と思ってしまうので本当に不思議だ。
自分のエネルギー
私といつも接してくれている方は耳にタコかもしれないが、あなたの好きなことはなんだろう。
今、少しこれを読むのを止めてみて、好きなことをしている時の自分を思い出してほしい。
目を瞑って、感じてみて。
今度は逆に、あまりしたくないこと、好きではないことをしている時の自分を思い出してみよう。
どうだろう、何か違いは感じられたかな?
人が出すエネルギーは、その人のその時の状態によって変わる。
好きなこと、ワクワクすることをしているとき、そのエネルギーが自分から出る。
好きなことやワクワクすることを語っている時も一緒だ。
誰かの話を聞いたり、誰かが作ったものを食べたり、購入したり、それに触れた時、自分のモチベーションや気分が上がった時は、本当にそのことが好きで好きで仕方がない人や企業の、そのワクワク、楽しい!というエネルギーを受け取ったからだと思う。自分が求めているエネルギーに対して、同じか、それ以上のものを受け取ったからだ。そしてそれが双方に循環する。
好きなことをする、それに集中する時、人はエネルギーに満ち溢れている。
逆の場合はエネルギーが枯渇してしまう。
もう知ってる人も多いかもしれないけど、ここにあらゆるヒントが隠されている。
エネルギーの循環するところにすべてが集まる
「お金は自分が出すエネルギーへの対価だ」という内容のものを読んだことがあるかもしれない。
お金もエネルギーであり、自分が出すエネルギーの代わりとしてお金のエネルギーが得られる(本人にとって、お金のエネルギーが重要ではない場合はお金以外のエネルギーを得る)。
最近の出来事を思い出してみると、それが当てはまるのがわかる。
- カフェで美味しいコーヒーを飲んだ→コーヒーを作ってくれる人たちのエネルギーとお金を交換
- スーパーで野菜を買った→農家さん、配送業者さん、小売店で働く人たちのエネルギーとお金を交換
- スクールで授業を受けた、サポートを受けた→講師の経験、エネルギーとお金を交換
などなど、考えればいくらでも出てくる。
無料でしているセミナーもあるけど?と思った方もいるかもしれないけど、そこには自分が出さなくとも回り回って何かしらの報酬が発生しているはずだ。
人間関係も同じ。人は集まってエネルギーを循環し合う。
私は人とは集まらないわ、という方は自然や生き物たちと循環し合っているのかもしれない。
経験上、エネルギーが枯渇している時は同じく枯渇している人や環境、状況を引き寄せやすい。
枯渇しているもの同士が集まると、そこにも不思議なエネルギーが発生する(どう表現して良いかわからないけど、あまりよくないものね)
不安や不満ばかりに気を取られていると、エネルギーは枯渇してしまうので気をつけて。
そうして考えてみると、私たちは日常生活の中で無意識にさまざまなエネルギーを出し、受け取りながら生きているのがわかる。
私がいつも「本当にやりたいこと、好きなことってなにがある?」と聞く理由はここにある。
神と神社のお賽銭
先に言っておくと私は無神論者ではない。けど、一般的な(?)神に人生を決められるのはゴメンだと思っているし、神はそんなことはしないと思っている。
インドの破壊神カーリーには無性に惹かれるしポスターも欲しいと思うほどだけど、彼女が私の人生に影響を及ぼすことはない。
そんな話はいいとして、最近のこのニュースを見た人はいるかな。
「お賽銭に1円玉はやめて!」硬貨51枚入金すると手数料330円の世知がらさ「神様に届かない現実」と嘆く声も
記事の日付を見ると先月のものだけど、この問題を扱う記事は数年前から何度か見かける。
この記事の中でも賛否両論のコメントが書かれているけど、あなたはこれをどう感じ、捉えただろう。
そもそも、あなたの中の「お賽銭」はなんのために入れるものだろう。
神様のため?自分のため?神社のため?
お賽銭を入れる少し手前に戻ってみようか。
あなたは神社の入り口にいる。
入り口で一礼をして境内の中に入り、手水で手を洗い、よく整備された参道を歩き本堂の前に立つ。
本堂の前に立つまでに、どんなエネルギーを感じただろう?
神聖なエネルギー?心地よさ?
どうして神社に来ると、その神聖さや心地よさを感じて、気持ちよく参拝できるのだろう?
もちろん、その土地が持つエネルギーもあるけど、日々そこを守ってくれている人がいるからである。
神が神の意思で、一瞬にしてきれいにして、神聖なエネルギーを出しているわけではなく、そこを大切にしたいと願う人たちが管理しているからだと私は感じる。
そのエネルギーがあるから、私たちはその場所であらゆることを感じることができる。
もうわかるかと思うけど、私の中ではお賽銭はその場所で循環しているエネルギーだ。
お賽銭が少ないからと言って、神は怒ったりしない。
神はそんなちっぽけではないし、私たちに対して判断や罰を下したりしない(もちろんご褒美なども)。
いつも一定で、ただそこに存在するだけ。
神がそんな決定権を持っているとすれば、この世で起こる出来事は矛盾だらけだ。
都合がいい時、都合がいいように引っ張り出されて、神のせいにする。そんな人間に神もうんざりだよきっと。
だけどそこでエネルギーを循環させていると思えばどうだろう。
私のエネルギーの循環点
私のエネルギーの循環点は、今は講師やメンター業が主かなと思う。
ただ、伝える、教える、だけでなく、時にあらゆる相談に乗ることも多い。
そこでみんなからもらうエネルギーもあるし、もちろんお金としてのエネルギーも発生している。
だけど少しずつ、そのエネルギーの循環点を変えようとしている私がいる。私がより良いエネルギーを出しながらワクワクできるところで。
そのひとつがきっと森になると思うのだけど、この秋に無事にそれがスタートできたら、ぜひ森と私のエネルギーを感じに来てみて欲しい。
その時は改めてご案内できればと思っている。
そして、雨が降り続いている地域の方、どうぞお気をつけて。
雨の森はきれいだけど、こんなにも降り続く森や山へは決して入らないように。
今週も1週間素敵な日々になりますように。