Written by 1:00 PM 日々のこと

何者かになろうとすること

我が家の植物たちから日に日に新しい芽が出始めていて、毎日その成長を見るのが楽しい季節になってきた。

上の写真のマキノ(通称マッタン / 植物に付けてる名前)からは、これまでにないくらい一気に芽が出てきている。
スーパーの園芸コーナーで長いこと売れ残り、最後は鉢が倒れて土がなくなりかけていても放置されていたサボさん(サボテン)からも新しい葉が(サボテンって葉なの?茎?)生えてどんどん大きくなっていき、元気に回復しているのが嬉しい。

植物や動物は成長して大きくなっても「何かになる」という意識はない。
いつの日もあるがままで、「私は◯◯だ」なんて思ってもいないだろう。
何かの本で「木は「私は木だ」とは思っていない。もしかすると彼はずっと夢を見ていて自分のことを風に泳ぐ鳥だと思っているかもしれない」というようなことが書かれていて、その日以来家にある植物も、街中や森の中の木も、そこにある生きるものに思いを馳せて、愛おしく感じるようになった。

それに比べて、私たち人間はそんな素敵な夢ばかり見ていられない。

子どもの頃から「大人になったら何になりたい?」と聞かれ、小学校の卒業文集や寄せ書き的なものに「将来なりたいもの」を書き、無意識に「大人になったら何かにならなければいけない」と刷り込まれて生きてきたような気がする。「将来の夢」と言うとワクワクしたけど、いつの日にか自分の生活を守ることのほうが優先されるようになっていく。

小学生から中学校、高校にかけて、私の将来の夢はずっとファッションデザイナーだった。
ブランドを持ちたい、と言うよりは「自分の手で何かを作り出したい」と言う思いが強かったと思う。
親は「デザイナーになんてなれるわけがない」と言いながらも、服飾の専門学校への進学を叶えてくれた。

そんな私が紆余曲折を経て、今はWebデザインの講師やメンターをメインにしているのだけど、それ以外にもカウンセラーやコーチだったり、本業のデザイナーをしてる時もある。

職業に限らずに言うと、娘であり母であり…言い始めるとキリがない。
こんな風に1日の中であらゆる自分をこなしている人は多いんじゃないかな。

でも、それらをすべて取り除けば、残るのは意識と肉体だけ。木と同じ。

Webのデザイナーであることも、講師やメンターであることも、カウンセラーやコーチであることも、娘や母であることも、そこに「相手」がいたり「環境」があるからこそ、その役割が生じる。

こんな問いがある。

「とある無人の山でとても大きな巨木が倒れた。そのときどんな音がしただろうか。」

UnsplashSebastian Unrauが撮影した写真

この問いの答えは「音はしなかった」となっている。
「音がする」というのは、木が倒れる時の振動が鼓膜に伝わり、そこで初めて「音」として感じられるから。
つまり、そこに誰もいなかったということは、音はしなかったことになる。

「何者かである」と意識するとき、自分だけがそこにいる世界でそうなっているだろうか。
必ず「そう認識してくれる誰か」がセットになっているんじゃないかな。

自分なんていない

心理学やスピリチュアル系の話の中でよく出てくる言葉だけど「自分はいない」というもの。

これは肉体や意識として存在しないというわけではなく、人間の持っている無意識のフィルターが関係していると思う。

例えば、あなたの大嫌いな上司がいるとする。
あなたから見ると命令ばかりして、人を駒のように扱い、意地悪な存在かもしれない。

さて、その上司がお家に帰り、家族と一緒にいるところを想像してみよう。
家族はその上司のことが大好きで、優しくて頼れる存在だと思っているとする。

本当の上司はどちらだろう?

「家族に優しいのは当たり前でしょう」

と思ったかもしれない。
でもそれもあなたの中にあるフィルターに過ぎない。

会社で厳しく理不尽な態度を取る上司を家族が知って

「実はひどい人なんだ」
と思うか
「厳しく部下を育てられるリーダーシップがある人だ」
と思うかは、その人その人のフィルターにかかっている。

そしてそのどの側面も上司であり、本当の上司ではない。

同じく私もあなたも、本当のわたしはいない。

自分が「これが自分」だと思っている自分も、フィルターがかかっているから。

自分が認識できる自分は、実はどこにもいないのだ。

二極の中で

UnsplashMartin Adamsが撮影した写真

とはいえ、私たちは常に他者と共存し、この世界はあらゆる二極が存在している。

他者を意識せず、また、自分のフィルターも外していくのはなかなか難しい。

大切なのは「フィルターがかかっている」と認識していることだと思う。

自分が相手を見るとき、相手が自分を見るとき、そこに真実はない。
そのフィルターに応じて、私たちは無意識にその役割を演じている。

相手があなたをどう見ようとも、どう評価しようとも、それは相手のフィルターにかかっている。
それをどう受け取るかは、あなたのフィルターにかかっている。

私たちは、いつも誰かのことを自分の好きなように思っている。
相手にそう思わされている、と思う時もあるけど、どう思うか選んでいるのはいつも自分だ。

どう思うかは自由であり、どこを見るのかも自由に選ぶことができる。

見る場所を変えたとき、あなたの気持ちはどう変わるだろう。

もちろん、見る場所を変えられない時もある。
自分の見ている場所を、相手がどうにかして変えてくれないかなと思ってしまうこともある。

例えば、相手の変えたいところが、何かのきっかけで変わったとしよう。
その時は「よかった」と思う。安堵感と幸福感と「これでもう大丈夫だ」という思いに包まれる。

でも、少し時間が経つと、また「変わってほしい」と思うところが出てくるはず。
人間のフィルターはひとつではなく、これまで生きてきた中であらゆるフィルターを身につけてきたので、ひとつのフィルターから外れても残りのフィルターたちがその道を再び塞ぐ。

何者にもならない

自分も本当の自分ではなく、相手も本当の相手ではないとしたら、私たちはどうこの世界を生きていけばいいのか。

とても複雑なように見えるけど、答えはとてもシンプルで

「好きなようにしている」ではないかと思う。

その時その時の自分の思いのまま、その自分でいることかなと思う。
でもそうは言われても、これって結構難しくて、実際に「好きにしていていいんだよ」と言われても、私はできなかった。好きにしていて、相手に嫌われないかな、私が好きにし始めると手がつけられない感じだけど大丈夫かな、とか。

相手のその言葉を信じ切ることができなかったのは、自分と相手を信じていなかったから。それからきっと、これまでの私の経験からフィルターをかけていたから。

「じゃあ不機嫌な態度をしたり、誰かに親切にしなくてもいいのか」

とも言われそうだけど、自分がそうしたいのであればそうあるべきで、不機嫌なあなたや親切にしないあなたをどう思うかは相手によって変わってくる。

誰かに親切にしたり、いつも元気な自分でいるというのは、自分がそうしたいからしているということが、客観的に見てみるとわかる。

人間のすることはすべて誰かのためではなく、自分のためだと私は思う。

そんなありのままの自分を見て、好きになってくれる人もいれば、離れていく人もいるかもしれない。
離れていく人に心を痛めることがあっても、さらにはそれで寝込んでしまっても、私たちにできることはそのままでいることだと思う。

自分が心からなりたいものがあれば、それになる努力をして、それになる。

でも、自分以外のものから何かを得るためにそうしているのであれば、立ち止まって一度考えてみる。

私は何者でもないけど、夢見る木のように何にでもなれる。

あなたが何者でなくとも、私はあなたのことが好きだ。

タグ: Last modified: 2023年5月4日
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